「死者に鞭打つ」。亡くなった人の言動を、あとからあれこれ責めること。「いまさら故人を悪く言うのは、死者に鞭打つようなものだ」と、たしなめるときによく使われます。

出どころは『史記』。父と兄を殺された男が、仇の王の墓をあばき、屍を引き出して鞭打った、という話です。

ただ、『史記』より古い記録では、鞭打たれているのは屍ではありません。

第1話 · 逃げた弟

紀元前 522 年、楚の平王は、重臣の伍奢(ごしゃ)を捕らえ、その二人の息子も呼び寄せようとします。二人が来れば、父を生かしてやる、と。

兄の伍尚(ごしょう)は、罠と知りながら父のもとへ行き、父とともに殺されました。弟は行かずに逃げ、いくつかの国を経て、東の呉にたどり着きます。これが伍子胥(ごししょ)、名は員(うん)です。

逃げるとき、伍子胥は楚の友人・申包胥(しんぽうしょ)に言い残していました。「私は必ず楚を覆す」。申包胥は答えます。「ならば私は、必ず楚を守る」。

呉で伍子胥は、王の座をねらう公子光(こうしこう)に近づき、野で畑を耕しながら時を待ちます。そのあいだに、仇の平王は死にました。紀元前 516 年のことです。翌年、公子光は王位を奪って呉王・闔閭(こうりょ)となり、伍子胥を呼び寄せて用いました。

第2話 · 三百の鞭

紀元前 506 年、呉の軍は楚を破り、ついに都の郢(えい)に入ります。平王の死から、十年がたっていました。

『史記』伍子胥列伝は、こう書いています。

乃ち楚の平王の墓を掘り、其の尸(しかばね)を出だし、之を鞭うつこと三百、然る後に已む(『史記』伍子胥列伝)

墓を掘り、屍を引き出して、三百回鞭打ち、それでやっとやめた。

山に逃れていた申包胥は、人をやって伍子胥を責めました。あなたの仇討ちは、度が過ぎていないか。かつては平王の臣として仕えた身で、いまや死んだ人を辱めるにまで至った、と。

伍子胥の返事は、こうです。「吾、日暮れて途(みち)遠し。吾、故に倒行して之を逆施す」。日は暮れかけ、道はまだ遠い。だから、順序も道理も逆さまにしたのだ。生きているうちに仇を討てないのでは、と恐れていた、という意味だと唐の注釈は説きます。

申包胥はそのあと秦に走り、七日七晩泣き続けて援軍を引き出しました。

第3話 · 墓か、屍か

ところが、『史記』より前に書かれた記録を見ると、話が違います。

前三世紀の『呂氏春秋(りょししゅんじゅう)』は、「荊平(楚の平王)の墳を鞭うつこと三百」。三百という数まであるのに、打たれたのは墳、つまり土を盛った墓です。前漢の賈誼(かぎ)の『新書』も、『淮南子(えなんじ)』も、鞭打たれたのは墓。歴史書『春秋左氏伝』には、そもそもこの話がありません。

『史記』の中でさえ、そろっていません。屍と書くのは伍子胥列伝と呉の家系の巻で、楚の家系の巻は「平王の墓を辱む」、年表などは「平王の墓を鞭うつ」です。

後漢の『呉越春秋』になると、左足で腹を踏み、右手で目をえぐった、という話まで加わります。

唐の注釈は「左氏(春秋左氏伝)にこの事無し」と書き添え、清の学者・顧炎武(こえんぶ)は、墓を鞭打っただけのことを、伝える者が大げさにして屍にしたのだろう、と考えました。

第4話 · 鞭を振るった人の屍

一方、伍子胥自身の最期です。『国語』や『史記』によれば、呉王・夫差(ふさ)と対立した伍子胥は、剣を賜って自ら命を絶ちます。死にぎわに、私の目を呉の東の門に掛けよ、越が攻め入るのを見届けたい、と言い残しました。怒った夫差は、その屍を革袋に入れ、川に投げ込ませています。

日本では、1824 年の合巻(絵入りの読み物)に、世のことわざにも「屍に鞭打つ」というのは、とりわけ忌むべき業(わざ)だ、という一節が出てきます。江戸の後期には、もうことわざでした。「死屍に鞭打つ」「死者に鞭打つ」とも言い、亡くなった人の行いを責める意味で使われます。

伍子胥の返事の句は、鎌倉の終わりの『徒然草』に「日暮、塗(みち)遠し」と見え、年をとったのに、なすべきことはまだ遠い、という嘆きの言葉になりました。いまは「日暮れて道遠し」と言います。

三百の鞭がどこに振り下ろされたのか、記録は割れています。『国語』『呂氏春秋』『荘子』など、多くの記録が一致するのは、鞭を振るった伍子胥自身の屍が、川に流されたことのほうです。