「食指が動く(しょくしがうごく)」という言葉、いま使うのは、何かに手を出したくなったとき。「その話には食指が動かない」——気が乗らない、という言い方です。
食指は人差し指のこと。親指から順に、巨指・食指・将指・無名指・小指と呼ぶうちの、二本目です。
では、なぜ人差し指なのか。語源をたどると、春秋時代の鄭(てい)に、この指が勝手に動くと必ずご馳走にありつく、という男がいたんです。そして、その指が動いた一日から、もう一つ別の言葉も生まれています。
第1話 · 宮中への道で、指が動く
紀元前 605 年。舞台は鄭、いまの河南省のまんなかあたり。北の晋(しん)と南の楚(そ)に挟まれて、どちらに付くかで揺れ続けていた小国です。
前の年に父の穆公(ぼくこう)を亡くし、立ったばかりの君主。それが霊公(れいこう)、名は夷(い)です。そこへ、二人の大夫がお目通りに向かいます。公子宋(こうしそう)、字(あざな)は子公(しこう)。もう一人が公子帰生(こうしきせい)、字は子家(しか)。
道すがら、子公の人差し指が、ひとりでに動きはじめました。彼はそれを子家に見せて言います。
他日(たじつ)我(われ)此(か)くの如きは、必ず異味を嘗(な)む (他日我如此、必嘗異味)——『春秋左氏伝』宣公四年
こうなったときは必ず珍味にありついてきた、と。実績のある指、というわけです。
第2話 · 煮える前に、二人が笑う
果たして、その日の宮中には届き物がありました。楚から献じられた黿(げん)——ふつうのすっぽんより大きな種で、当時のごちそうです。
二人が入っていくと、料理人がちょうどそれをさばこうとしている。子公と子家は顔を見合わせて、吹き出しました。
笑い声を聞きとがめた霊公が、何がおかしいと訊く。子家が、道すがらのいきさつを話してしまいます。指が動いた、だから珍味にありつくはずだと申しておりまして——。
やがて羹(あつもの)が煮えあがり、大夫たちに振る舞われました。椀が順に回っていって、子公のところだけ、回ってこない。呼びつけておいて、与えない。
予言を、君主の手で外してみせたわけです。
第3話 · 手が、鼎へ伸びる
子公は怒りました。そして、居並ぶ大夫たちの目の前で、煮えている鼎(かなえ)に手を伸ばします。
子公怒り、指を鼎に染(そ)め、之を嘗めて出づ (子公怒、染指於鼎、嘗之而出)
指を突っ込み、しゃぶって、そのまま退出した。
これが染指(せんし)——「鼎に指を染む」の出どころです。中国語では今も、分不相応な利益に手を出すことを「染指」と言います。一つの席から、二つの言い回しが出た。
もっとも、ここまではまだ、行儀の悪い話で済んでいます。
第4話 · 名前が残るのは、どちらか
済まなかったのは、霊公のほうでした。本気で腹を立て、子公を殺す気になる。
察した子公は、子家に先手を持ちかけます。子家は渋りました。「畜(ちく)の老いたるすら、猶(なお)之を殺すを憚(はばか)る。而(しか)るを況(いわ)んや君をや」——家畜が老いてさえ殺すのはためらうのに、まして主君を、と。
すると子公は、逆に子家のほうを霊公に讒言(ざんげん)します。追い詰められた子家は、従いました。その夏、霊公は殺されました。即位から、一年たっていません。
面白いのは、記録のされ方です。『春秋』の経文(けいぶん)はこう書きます——「鄭の公子帰生、其の君夷を弑(しい)す」。鼎に指を入れた子公ではなく、渋々加わった子家の名で残った。『左伝』は理由を一言、「権(けん)足らざればなり」。止める力がなかったから、と。
そして君子の評が添えられます。「仁にして武ならざれば、達する能(あた)わず」。やさしくても押し通す力がなければ、そのやさしさは最後まで届かない。
霊公には、はじめ「幽(ゆう)」という諡(おくりな)がつきました。のちの改葬で「霊」に改められます。どちらにしても、褒め言葉ではありません。
この言い回しが日本の文章に顔を出すのは、ずっとあとのこと。江戸中期、荻生徂徠(おぎゅうそらい)の文集あたりからです。
指が一本、道ばたで動いた。それだけの話だったんです、羹が煮えあがるまでは。