「天高く馬肥ゆる秋」。空が澄んで高く、馬もよく肥える、気持ちのいい季節のことです。食欲の秋のあいさつにもよく使われます。
そして、よくこう説明されます。もとは、北の騎馬民族が攻めてくる季節を警戒した言葉だった、と。
半分は本当です。けれど、この言葉の形のもとになった唐詩の一句は、警戒ではなく、勝ちを待つ側で詠まれていました。
第1話 · 秋になれば、何かが起きる
秋と馬と戦を結びつける発想は、たしかに古くからあります。
『史記』によれば、北方の匈奴は秋、馬の肥えるころに大集会を開いて人と家畜を数えます。漢から寝返った男は、秋の実りを待って騎馬で畑を踏み荒らしてやる、と漢の使者を脅しました。
紀元前 63 年ごろ、前漢の老将・趙充国(ちょうじゅうこく)は、西方の遊牧民・羌(きょう)が匈奴と手を結ぼうとする動きを見て、皇帝にこう進言しました。
秋に到りて馬肥ゆれば、変必ず起こらん(『漢書』趙充国伝)
秋になって馬が肥えれば、必ず変事が起きる。いまのうちに備えを、と。
ただし変事の引き金を引いたのは、秋の馬ではなく漢の側でした。進言から二年ほどのち、朝廷の送った使者が羌の首長たちを斬り、それがきっかけで羌が背いたのです。七十を過ぎた趙充国が、自ら現地へ行かせてほしいと願い出たときの言葉が「百聞は一見に如かず」でした。
第2話 · 祖父の一句
日本語の形のもとになったのは、唐の初めの詩人・杜審言(としんげん)の一句です。北の戦地へ書記として加わった友人、蘇味道(そみどう)に贈った詩でした。
雲浄くして妖星落ち、秋高くして塞馬肥ゆ(杜審言「贈蘇味道」)
雲が晴れて不吉な星が落ち、秋の空は高く、とりでの馬は肥えている。
この一句の前には、敵の兵は尽きかけ、わが兵はなお囲んでいる、とあります。後ろには、君は鞍にまたがって剣をふるい、筆をとれば檄文が飛ぶ、凱旋したら春の光のなかで歌い舞おう、と続く。勝ちが見えてきた側の秋でした。
江戸でいちばん読まれた唐詩の選集『唐詩選』。その講義『唐詩選国字解』も、ここを、もうすぐ戦もおさまるだろう、馬も肥えて駆け回るのにいい時分だ、と読んでいます。
第3話 · 孫の四字
では、この形を警戒の言葉として書いたのは誰か。
杜審言の孫が、杜甫(とほ)です。安史の乱のさなかの 758 年ごろ、杜甫は地方長官に代わって書いた上奏文で、反乱軍の頭目が「秋高馬肥」の好機を狙っている、と警戒を促しました。四字の形では、確かめられるかぎり最も古い例です。
以後の中国では、この四字は宋でも明でも、北からの侵攻に備えよという文脈で使われ続けます。祖父が勝ちを待って詠んだ秋を、孫は敵の来る秋として書いたわけです。
もう一つ。宋の古い詩文集では、祖父の句は「秋深くして」になっています。「秋高く」は明の選集を経て『唐詩選』に入った字でした。日本が受け取ったのは、その「高」のほうです。
字面だけなら、日本でのちによく使われる「秋高く馬肥ゆ」には、孫の四字のほうが近く見えます。けれど、祖父の句は江戸の人が親しんだ『唐詩選』に入っていて、『ことわざを知る辞典』も、「秋高く塞馬肥ゆ」が「秋高く馬肥ゆ」になった、と説明しています。
第4話 · 秋高くから、天高くへ
明治の半ばごろまで、日本でよく見かけるのは「秋高く馬肥ゆ」の形です。遠足の季節や、時候のあいさつにも、もう使われていました。
「天高く」が目立ちはじめるのは明治の後半から。俳句では「天高し」と「秋高し」が同じ秋の空を言う季語だったので、そこから入れ替わったのかもしれません。
ただ、『日本国語大辞典』が挙げる用例には、戦の気配もまだ同居しています。田山花袋の小説『春潮』(1903 年)です。省かれたところまで読むと、秋の陸軍の演習を前に「天高く馬肥え、戦争には実に此上もない好時節である」と書かれていました。
やがて戦の気配のほうが抜け落ちて、食欲の秋へ。
勝ちを待つ祖父の秋は、海を渡って、おなかのすく秋になりました。