「哲学」という言葉、いま使うのは大学の学問の名前か、あるいは「あの人には哲学がある」のような、生き方の芯を指す言い回しでしょうか。どこか、難しくて近寄りがたい響きのある一語です。
でも、この二文字が生まれたのは、たかだか百五十年ほど前。しかも、もとの西洋語にあった「愛する」という中身が、翻訳の途中で、そっと見えなくなった——そんな来歴を持つ言葉なんです。
第1話 · 「知を愛する」という学問
おおもとは、ギリシャ語のフィロソフィア(philosophia)。「フィレイン(愛する)」と「ソフィア(知恵)」を合わせた言葉で、直訳すれば「知を愛すること」です。
プラトンが描いたソクラテスは、こう語ります。「知者(ソフォス)」と呼ぶのは、神にこそふさわしい、大きすぎる名だ。人に似つかわしいのは、「知を愛する者(フィロソフォス)」のほうだ、と(『パイドロス』)。知恵を「持っている」と誇るのではなく、届かないものとして、愛し、求めつづける。フィロソフィアという言葉の芯は、この謙虚さにあります。
第2話 · 西周、翻訳に悩む
時は飛んで、幕末から明治の日本。西洋の学問が濁流のように流れ込み、philosophy という語も、そのなかにありました。
これを引き受けたのが、津和野藩出身の洋学者・西周(にしあまね)。幕府の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)に出仕し、オランダのライデンに留学して、西洋の法学などを学んだ人です。philosophy との格闘は、実は留学に発つ前——幕末のうちから、もう始まっていました。
悩みどころは、手持ちの言葉が使えないことでした。「理学」「理論」と訳せば、朱子学の「理」と混ざってしまう。西洋の philosophy を、儒学と同じ語で呼ばれては困る。西周は、まっさらな訳語を作ることにします。
第3話 · 「希哲学」——賢さを希う学
手がかりにしたのは、意外にも中国の古典でした。北宋の儒学者・周敦頤(しゅうとんい)の『通書』に、こんな一節があります。
聖は天を希(こいねが)い、賢は聖を希い、士は賢を希う(『通書』志学)
聖人は天のようでありたいと希い、賢人は聖人を、学ぶ者は賢人を希う——上へ上へと「希い求める」、向上の連なりです。西周はここを踏まえて、「賢さを、哲(さと)さを希い求める学」、すなわち「希哲学(きてつがく)」という訳語を編み出しました。
「希」の一字が、フィロソフィアの「愛する(フィレイン)」を受け持つ。ギリシャの言葉の芯を、宋の儒学の言葉で写し取った、みごとな訳でした。
第4話 · 「希」が、落ちた
ところが、この訳語は、そのままの形では残りませんでした。西周自身が、やがて「希」を落とした「哲学」の形を使うようになります。西には西の理屈がありました——いまの philosophy は、もっぱら「理を講ずる学」を指して使われている。「希い求める」は、もう実態に合わない。そう見立てたうえでの、意図的な一字だったのです。
こうして明治7年(1874 年)に刊行された『百一新論』などを通じて、二文字のほうが世に広まっていきます。明治10年(1877 年)に発足した東京大学では、学科の名前に「哲学」の語が入り、訳語は制度としても固まりました。
二文字になって、言葉の据わりはよくなった。けれど、「希い求める」という動きのニュアンスは、表からは見えなくなりました。「哲学」と聞くと、完成された、硬くて難しい学問のように響くのは、そのせいもありそうです。
もとをたどれば、知を「持つ」学ではなく、知を「愛し、希い、求めつづける」営み。「哲学」という言葉のいちばん奥には、翻訳の途中でそっと畳まれた「希」の一字が、いまも眠っている——のかもしれません。