「雲泥の差」。比べものにならないほど、大きな違いのことです。雲は空の上、泥は足もと。どちらが上かは、言うまでもありません。じつはこの雲と泥、もとは二人の人の居場所のたとえでした。

では、雲に乗っていたのは誰だったのか。出どころの手紙を読むと、それは出世した人ではありませんでした。

第1話 · 山の穴に住む男

二世紀の中国、後漢。長安に近い扶風(ふふう)の茂陵(もりょう)に、矯慎(きょうしん)という男がいました。字(あざな)は仲彦(ちゅうげん)。

若いころから、黄帝と老子の教え、いわゆる黄老(こうろう)の道を好み、山の谷に身を隠しました。山の穴を住まいにして、赤松子(せきしょうし)や王子喬(おうしきょう)といった伝説の仙人の、呼吸と体操の術にあこがれていたといいます。

同じ郷里の同じ時代には、学識で名を上げた馬融(ばゆう)や、清廉で知られた蘇章(そしょう)がいました。その二人が、そろって矯慎を自分より先に立てた。『後漢書』は、世を捨てて生きた人々を集めた逸民列伝に、この男を収めています。

第2話 · 西風が吹くたびに

遠く東の汝南(じょなん)に、矯慎をたいへん重んじる呉蒼(ごそう)という人がいました。経歴は伝わっていません。その呉蒼が、矯慎の志を探ろうと、一通の手紙を送ります。書き出しはこうです。

仲彦足下、勤めて隠約に処る。雲に乗り泥を行くと雖も、棲宿同じからず。西風有る毎に、何ぞ嘗て歎かざらん(『後漢書』逸民列伝)

あなたは苦労して隠れ住んでいる。雲に乗るあなたと、泥の道を行く私。住むところは違うけれど、西風が吹くたびに、ため息をつかずにはいられない。汝南は扶風の東にあります。西風は、矯慎のいる方角から吹いてくる風でした。

雲は、相手を立てる言い方です。けれど手紙は、そこから説得に変わります。黄老の教えにも、国を治める道があるではないか。山に消えても、仙人になった証拠は誰も見ていない。いまは明るい世の中で、伝説の隠者・巣父(そうほ)や許由(きょゆう)も山にこもる必要はなく、首陽山(しゅようざん)で餓死した伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)も、山に入ったことを悔やむだろう。そして最後に、もし本当に竜に乗り、鳳凰とたわむれて雲間を飛べるのなら、狐や兎や燕や雀のような私が口を出すことではない、と結びました。

雲に乗る人、という持ち上げは、皮肉まじりの仕官のすすめでもあったわけです。

第3話 · 敦煌で見た者

手紙への返事について、『後漢書』が書いているのは三文字だけです。「慎不答」——慎、答えず。

矯慎は七十を過ぎても妻をめとりませんでした。そしてある日ふいに家へ帰ってきて、自分の死ぬ日を告げ、その日に本当に死んだ。のちに、遠い西の敦煌で矯慎を見たという者が現れ、仙人になったのだ、とも言われたそうです。

雲間を飛べるのなら口出しはしない、と書かれた男は、言葉では何も答えず、そのまま雲の向こうへ行ってしまったのかもしれません。

第4話 · 入れ替わった雲

やがて雲と泥が「雲泥」の二字になって詩に入ると、雲に座る人が変わります。六世紀の詩にはもう「雲泥已(すで)に路(みち)を殊(こと)にす」という句が見えます。

唐の杜甫は、急に出世した友を送る詩に、「雲泥相望んで懸(はる)かなり」と書きました。雲は出世した友、泥は白髪頭で頼るもののない杜甫自身です。白居易の「傷友」はもっと具体的です。昔は洛陽で、貧しい者どうし助け合った二人。いまは雨の長安の道で、一方は肥えた馬に乗って知らぬ顔で通り過ぎ、一方は足の悪いロバで道の脇によけて立つ。「面(おもて)を対して雲泥を隔つ」。

雲は、出世しないことを選んだ男の場所から、出世した者の場所になりました。日本でも『平家物語』で源頼政が、いまや源氏と平家は「雲泥まじはりをへだてて」と、身分の差として使っています。

いまの「雲泥の差」に残っているのは、雲が上だということだけ。はじめにそこへ座っていたのは、手紙に返事もしなかった、山の穴の隠者でした。