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全 71 本。新しい順に並んでいます。
「朝令暮改」は、方針がころころ変わることへの愚痴。でも出典の『漢書』食貨志にあるこの一句が写していたのは、重い取り立てに追われる農民の暮らしだった。しかも清の王念孫は「改」は本来「得」だと断じ、奈良朝写しの国宝にはそもそも「改」の字がない。上奏を書いた晁錯の運命とあわせて物語として紹介します。
「自然」はもともと風景の名前ではなかった。『老子』の「自然」は「おのずから然り」というようすを指す述語で、名詞ではない。蘭学者はいったん natuur に当てたが、後続の辞書は「切当ならず」と斥ける。1889 年の巌本善治と森鷗外の論争を経て、ようやく「自然=自然界」が定着した——日常語の由来を物語として紹介します。
「大器晩成」の出典は『老子』第四十一章。でも 1993 年に出土した現存最古の写本・郭店楚簡には「大器曼成」、馬王堆帛書乙本には「大器免成」とあった。本来は「大きな器は完成しない」の意だったとする有力説もある。励ましの言葉になるまでを、『韓非子』喩老篇から『三国志』崔琰伝まで物語として紹介します。
「革命」の出どころは『易経』革卦の彖伝「湯武 命を革め、天に順ひて人に応ず」。もとは天が王朝の命を革める、上からの交代劇だった。それが明治日本で revolution の訳語に選ばれ、清末の梁啓超は「確訳に非ざるなり」と噛みついた——日常語の由来を物語として紹介します。
「出藍の誉れ」は、弟子が師を超えたことへの称賛。でも、もとになった『荀子』勧学篇の一句「青は之を藍より取りて、藍より青し」は、じつは荀子が「学ぶのをやめるな」と説いた向上のたとえで、師弟の話ではなかった。しかも「出藍の誉れ」という語自体、荀子の言葉ではない——意味がずれていった言葉の由来を物語として紹介します。
「ナルシスト」は自分に酔う人のこと。語源はギリシャ神話の美少年ナルキッソス——泉に映る自分に恋して死に、水仙になった。その名を1914年にフロイトが「自己愛」の心理学用語ナルシシズムへ橋渡しし、英語 narcissist を経て日本語に定着した。二千年をかけて日常語になった、その由来を物語として紹介します。
仲人を意味する「月下氷人」は、実は由来を異にする二つの物語をつないだ合成語です。唐の宋城で若者・韋固が出会った月下老人は、生まれる前から夫婦の足を赤い縄で結ぶ縁結びの存在。もう一方の「氷人」は、西晋の令狐策が見た夢の占いから生まれた仲人の異名。二つの故事が一語に結ばれた由来を物語として紹介します。
戦国時代、孟子が弟子・公孫丑に説いた「浩然の気」。至大至剛で天地に満ち、日々の正しい行い(集義)を積み重ねて自然に養われる、義に根ざした活力だった。それを説いたまさにその場面で引かれたのが、苗を引き抜いた「助長」のたとえ。いまや「自然に触れてのびのび」へやわらいだ『孟子』公孫丑上篇の言葉を物語として紹介します。
王莽の新が倒れた乱世、邯鄲で「漢の皇子」を名乗る王郎が皇帝に立ち、河北の街々が雪崩を打ってなびいた。二十一歳の耿弇は、王郎へ走ろうとする従者に「精鋭の騎兵であんな烏合の衆を踏みにじるのは、枯れ木を砕くようなものだ」と言い放つ——『後漢書』耿弇列伝に残る「烏合の衆」の由来を物語として紹介します。
「お盆」は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」の略で、その正体は一巻の経典『仏説盂蘭盆経』にさかのぼる。釈迦の弟子・目連が、餓鬼道に落ちた母を、安居明けの僧たちへの供養で救う——その説話が毎年の行事になった。語源にも経典の成立にも諸説あり、日本では古来の祖霊信仰と習合して今のお盆になった、という日常語の由来を物語として紹介します。
戦国時代、内乱と斉の侵攻でどん底に落ちた燕。再建を期す昭王が「どうすれば賢者が来てくれるか」と問うと、臣の郭隗は「死んだ千里の馬の骨を五百金で買った王」の昔話を語り、「まず私からお始めください」と説いた——『戦国策』燕策一に残る「隗より始めよ」の由来を物語として紹介します。
「哲学」は明治の翻訳語。西周がギリシャ語フィロソフィア(知を愛すること)の訳語として、北宋の周敦頤「士は賢を希う」を踏まえた「希哲学」を編み出し、やがて「希」が落ちて「哲学」に定着した。「愛し希い求める」を受け持った「希」の一字が畳まれるまで——日常語の由来を物語として紹介します。
西晋の孫楚は、隠遁の暮らしを「石に枕し流れに漱ぐ」と言うつもりが、うっかり「石に漱ぎ流れに枕す」と口を滑らせた。友に間違いを指摘されても認めず、「石に漱ぐのは歯を磨くため、流れに枕すのは耳を洗うため」と言い張る。負け惜しみを意味する「漱石枕流」——夏目漱石の筆名の由来にもなった故事を物語として紹介します。
「阿吽」はサンスクリットの字母の最初の音「a(阿)」と最後の音「hūṃ(吽)」。密教では万物の始まりと終わりを背負う二音とされ、仁王像や狛犬の「阿形・吽形」に姿を変えた。それが対になる二者の息の合いようへ転じ、「阿吽の呼吸」になる——日常語の由来を物語として紹介します。
春秋時代、晋は虞に道を借りて隣の虢を攻めようとする。虞の賢臣・宮之奇は説く——「虢は虞の防壁。唇がなくなれば歯が寒い。虢が滅べば虞も続く」。だが虞公は耳を貸さず、晋は虢を滅ぼした帰り道、約束を破って虞も併呑した。『春秋左氏伝』に残る「唇亡びて歯寒し」の由来を物語として紹介します。
ギリシャ神話の英雄アキレウス。母テティスは我が子を不死にしようと、冥府の川ステュクスに浸す。だが踵を掴んでいたため、そこだけ水に濡れず弱点となった。トロイア戦争で無双の活躍をするも、最後はその踵を矢に射られて落命する。踵から脹脛の腱、そして「唯一の弱点」を指す「アキレス腱」の由来を物語として紹介します。
戦国時代、斉の公子・孟嘗君は秦の昭王に招かれるが、危険視されて捕らえられ、殺されかける。彼を救ったのは、三千の食客のなかで侮られていた二人——盗みの名人が狐白裘を盗み、鶏の鳴き真似の名人が函谷関を破る。『史記』孟嘗君列伝に伝わる「鶏鳴狗盗」の由来を物語として紹介します。
「切磋琢磨」はもと『詩経』衛風・淇奥の一句「切するが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如し」。骨・象牙・玉・石を切り、研ぎ、打ち、磨く——その手間を、君子の自己修養になぞらえた。のち『論語』で弟子の子貢がこの句を引き、孔子に「ともに詩を語れる」と認められる——日常語の由来を物語として紹介します。
戦国時代、孟子が弟子に「浩然の気」の養い方を説くなかで引いたたとえ。宋のある男が、苗の伸びの遅さに焦り、一本ずつ引き抜いて「伸びるのを助けてやった」と言う。だが翌朝、苗はすべて枯れていた——『孟子』公孫丑上篇に残る「助長(揠苗助長)」の由来を物語として紹介します。
「縁起」はもとは仏教の根本思想で、サンスクリット「縁って起こる」の漢訳、「因縁生起」の略。あらゆる物事は因と縁が寄り集まって生じるという、釈迦の悟りそのものだった。それが寺社の由来書「社寺縁起」を経て、「物事の起こり」、さらに「吉凶の前兆」へ転じる——日常語の由来を物語として紹介します。
「邯鄲の夢」は、唐の沈既済『枕中記』から。邯鄲の宿で道士・呂翁が若者・盧生に枕を授けると、盧生は宰相にまで上りつめる栄華の一生を夢に見る。だが目覚めると、宿の主人が炊いていた黍はまだ炊き上がってもいなかった。人の世の栄華のはかなさを意味する、その由来を物語として紹介します。道士は原典では呂翁で、呂洞賓は後世の翻案。
「社会」はもともと中国の古い漢語で、「社」は土地神をまつる場、「会」は集まり。合わせて村人が社の祭りに集うことを指し、宋代の『近思録』にも見える。日本では死語に近かったが、明治初期、society の訳語として福地源一郎らが引っぱり出し、「交際」「世態」と競って定着した——日常語の由来を物語として紹介します。
「桃源郷」は、東晋の詩人・陶淵明『桃花源記』に描かれた理想の村から。武陵の漁師が桃の花の林の奥に迷い込むと、秦の戦乱を逃れた人々の子孫が、外界を知らぬまま平和に暮らしていた。ただし「桃源郷」の三字は原典になく、本文の語は「桃花源」。後世「桃源」「桃源郷」へ広がった。俗世を離れた理想郷を意味する、その由来を物語として紹介します。
「自由」は古くからある漢語で「自らに由る=思いのまま」の意。だが日本では中世に「自由狼藉」のように、わがまま・無法という否定的な語感が強かった。幕末の福沢諭吉が liberty にこの語を当てつつ注意を促し、中村正直訳『自由之理』(1872、ミル On Liberty)の普及で近代的な「自由」が定着した。その由来を物語として紹介します。
「蛍雪の功」は、灯火の油も買えない貧しさのなか、東晋の車胤は夏に蛍を集めその光で、孫康は冬に雪明かりで書を読んだという二つの苦学の故事から。車胤の話は『晋書』、孫康の話は唐『蒙求』が引く『孫氏世録』にあり、二つを一対の句にまとめたのが『蒙求』。卒業の唱歌「蛍の光」の元でもある。苦学して成果を上げることを意味する、その由来を物語として紹介します。
「ロボット」は、チェコの作家カレル・チャペックの戯曲『R.U.R.』(1920)で生まれた言葉。語源はチェコ語 robota(賦役・奴隷の労働)で、語を考案したのは作者本人ではなく兄の画家ヨゼフだった。作中のロボットは金属の機械ではなく合成された人造人間で、やがて人類に反乱する。日本へは1923年に「人造人間」として訳された。その語源を物語として紹介します。
「覆水盆に返らず」は、出世した呂尚(太公望)のもとへ、かつて貧しさに愛想を尽かして去った妻が復縁を願って戻ったとき、太公望が地に水をこぼし「この水を器に戻せたら」と告げた故事から。東晋・王嘉『拾遺記』に由来するとされ(現行本には欠け、南宋・王楙『野客叢書』が引く逸文)、一度してしまったことは取り返しがつかない、という意味で使う。その由来を物語として紹介します。
「退屈」はいま「ヒマでつまらない」だが、もとは正反対の仏教語だった。「退」は退く、「屈」はくじける。悟りという目標があまりに高く果てしないと知り、心が退きくじけて気力を失うこと——唯識『成唯識論』の説く三退屈である。源信『往生要集』にも見える。それが中世に「疲れて嫌になる」へ、さらに「することがなくて暇」へ転じた、日常語の由来を物語として紹介します。
戦国時代、宋のある農夫の畑に兎が走り込み、切り株にぶつかって死んだ。労せず獲物を得た男は、すきを捨てて切り株を見張りつづけ、国じゅうの笑いものになる。韓非子が『五蠹』に書きつけた、古いやり方に居座る愚かさの寓話——「守株」の由来を物語として紹介します。
毎日くぐる「玄関」は、もともと「玄妙な仏道に入る関門」を指す禅の言葉だった。『老子』の「玄之又玄、衆妙之門」に発し、禅寺の方丈の入口の呼称となり、室町の書院造で武家の式台玄関へ、明治以降に一般住宅へ広がった。精神の関門が建物の入口に降りてくるまでの、日常語の由来を物語として紹介します。
「呉越同舟」は『孫子』九地篇の一節が由来。憎み合う呉人と越人でも、同じ舟で川を渡り嵐に遭えば左右の手のように助け合う——常山の蛇「率然」のたとえに続けて、兵を一つにまとめる状況の力を説いた。臥薪嘗胆の宿敵・呉と越を舞台にした四字熟語の語源を物語として紹介します。
もとは仏教の言葉だった。「出世間」——迷いに満ちた俗世(世間)を出て、悟りへ向かうこと。仏がこの世に現れることも「出世」と呼んだ。それが日本で僧の栄達を指し、やがて俗世での成功=「立身出世」へと裏返る。世を捨てる言葉が世で勝ち上がる言葉になった「出世」の由来を物語として紹介します。
蜀漢の建興十二年(234 年)、五丈原で諸葛亮が病没する。蜀軍は密かに撤退を始めるが、魏の司馬懿(仲達)はその気配を察して追撃に出た。ところが蜀軍が反転して旗鼓を整え向かってくるのを見て、孔明はまだ生きているのではと疑い、軍を引き返す——『三国志』諸葛亮伝(裴注引『漢晋春秋』)に残る「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の語源を物語として紹介します。
「旦那」は梵語 dāna(ダーナ、与えること・布施)の音写「檀那」が由来。布施は六波羅蜜の筆頭に置かれた修行で、布施をする人 dānapati は「檀越」と音写された。寺を支える施主から、中世の参詣案内人の顧客、江戸の商家の主人やひいき客、そして夫の呼び名へ。英語の donor と同じ根を持つ日常語の由来を物語として紹介します。
秦末の淮陰、市場の無頼に絡まれた若き韓信は、「俺を斬るか、股をくぐるか」と挑発される。剣を抜けば、自分も法に問われて死ぬ——彼はじっと相手を見つめ、伏してその股下をくぐった。のちに大将軍となって故郷に戻ったとき、彼はその無頼を中尉に取り立てた。『史記』淮陰侯列傳に残る逸話を物語として紹介します。
「経済」は中国古典「経世済民」(世を経(おさ)め、民を済(すく)う)の略。葛洪『抱朴子』に「経世済俗」の語があり、隋末の王通『中説』礼楽篇には「皆 経済の道有り」と現れる。江戸の太宰春台『経済録』を経て、明治初期に福沢諭吉や神田孝平が economy の訳語に据え直した——日常語の由来を物語として紹介します。
後漢末、三顧の礼で諸葛亮を軍師に迎えた劉備は、若き孔明と日夜語り合うようになる。関羽・張飛が「あの書生にそこまで」と不満を漏らしたとき、劉備は「孤に孔明あるは、なお魚に水あるがごとし」と諭した——『三国志』諸葛亮伝に残る「水魚の交わり」の語源を物語として紹介します。
「我慢」を漢字で書くと、文字どおり「我」の「慢」。もとは仏教用語で、自我に執着して他者を見下す慢心——『倶舎論』『成唯識論』の説く七慢の一つ。江戸初期の『日葡辞書』にも「ガマン=傲慢」と記される。それが日本のなかで「強情」を経て「耐え忍ぶ」へと意味反転していった、日常語の由来を物語として紹介します。
戦国時代、趙の藺相如と将軍・廉頗の物語。澠池の会で功を立て上卿に昇った藺相如を、武功で名高い廉頗が「あの男の下には立てない」と憎む。藺相如はひたすら避け、その理由を聞いた廉頗は、上半身裸になり荊を背負って詫びに来た——『史記』が伝える「刎頸の交わり」の語源を物語として紹介します。
「おっくう」を漢字で書くと「億劫」。「劫(こう)」は仏教の途方もない時間単位で、たとえでは「大岩を、天人が百年に一度だけ衣で撫でて磨り減らすまで」とも。億劫はその一億倍——気が遠くなるほど長い時間が、いつしか「気が進まない・面倒だ」の意味になった、日常語の由来を物語として紹介します。
北宋仁宗の頃、欧陽脩・石延年と並んで「三豪」と讃えられた詩人がいた——歴陽の杜黙、字 師雄。歌豪と呼ばれながら、その詩はしばしば作詩の律から外れていた。南宋の王楙が考証随筆『野客叢書』巻二十に書き留めた一文が、現代日本語の「ずさん」の語源になる。
「油断」の語源には諸説あるが、最もよく語られるのが『北本涅槃経』巻二十二の油鉢のたとえ——王が罪人に油を満たした鉢を持たせ、一滴でもこぼせば斬ると言い渡す。仏典では集中の極致だったはずの語が、日本に渡るうちに反対の「気の緩み」に転じた、その由来を物語として紹介します。
後漢のなかごろ、弘農の山に隠れた儒者の張楷は、『春秋』『尚書』に通じる学者でありながら、道術を好み「五里霧」を起こせたという。同じ術を志した関西の裴優は三里霧で盗賊働きをし、楷を巻き込む——『後漢書』張霸列傳附 楷傳に残る「五里霧」の故事を、弘農山中のひと場面として語ります。
「バカ」の語源には定説がない。梵語で「無知」を意味する moha の音写「莫迦」だとする仏教由来説、秦の趙高が鹿を馬と言い張った『史記』の故事に結びつける説、『太平記』の「馬鹿者」に始まるとする説——「馬鹿」という漢字すら当て字である、つかみどころのない語源を物語として紹介します。
三国時代、赤壁の戦い。曹操の大軍を前に、呉の老将・黄蓋は火攻めと偽りの投降を進言する。『三国志演義』では、敵を信じ込ませるため、黄蓋はわざと周瑜に杖で打たれてみせた——自分の身を痛めてまで敵を欺く「苦肉の策」の語源を物語として紹介します。
「ピンキリ」のルーツは、十六世紀後半に南蛮渡来のカルタを日本で模した「天正カルタ」。「ピン」はポルトガル語 pinta(点)から、カルタやサイコロの「1」を指した。「キリ」はポルトガル語 cruz(十字)説と、漢字「切(区切り)」説の二大説。江戸末期に現れた「ピンからキリまで」は「最初から最後まで」の意から、明治以降「最高から最低まで」のニュアンスに固まった——その語源を物語として紹介します。
楚から漢に転じた韓信は、登用されず、ついに逃亡した。それを馬で追って連れ戻した宰相・蕭何は、劉邦の前で言い切った——「諸将は容易に得られるが、韓信のごとき者は、国士に二人といない」。『史記』淮陰侯列傳に残る「国士無双」の語源を物語として紹介します。
「やばい」のルーツは江戸の隠語「やば」。語源は「厄場(やくば)」(牢屋)説と「矢場(やば)」(射的場の隠れ蓑)説の二つが有力で、定説はない。十返舎一九『東海道中膝栗毛』に用例が見え、1970 年代のジャズメンの仲間内で「物すごい」の意味が芽生え、2006 年『大辞林』第三版で「すごい」が新たに収載された——その語源を物語として紹介します。
蜀漢 建興六年(228 年)、第一次北伐の先鋒として街亭を任された馬謖は、諸葛亮の指示に背き、水場を捨てて山上に布陣した。魏の張郃に水源を絶たれて蜀軍は崩壊、北伐は頓挫する。獄に下された馬謖を、諸葛亮は泣きながら軍法で斬り、自らも丞相から三等降格する——『三国志』蜀書 諸葛亮伝・馬謖伝・王平伝に残る「泣いて馬謖を斬る」の語源を物語として紹介します。
「ごちそう」のもとは漢語「馳走」——もとは馬を走らせて奔走することを意味した。日本に入って「世話を焼く」「もてなしの料理」へと意味が移り、食後の「ごちそうさま」として定着する。いま「いただきます」と対をなして使われる食後の挨拶——その語源を物語として紹介します。
南朝梁の画家・張僧繇が、金陵の安楽寺の壁に四頭の白龍を描いた。瞳を入れない四頭の龍に、人々がしつこく瞳を入れるよう頼む。点睛の瞬間、雷電とともに壁が破れて二頭が天に飛び去り、瞳を入れていない二頭はそのまま残った——晩唐の張彦遠『歴代名画記』に伝わる「画竜点睛」の故事を物語として紹介します。
いま当たり前の「一週間」、語そのものの初出は明治十二年の歌舞伎。七つの曜日のもとは古代バビロニアの神々で、ヘレニズム期に日月火水木金土の順が決まり、空海が大同元年に『宿曜経』を日本に持ち帰った。だが千年、それは暦注の道具どまり。明治の改暦と日曜休暇令で、千年眠った曜日が一気に生活の単位として目を覚ます——その語源を物語として紹介します。
春秋末、呉の闔閭は越に攻め入って親指を射られて死に、子の夫差は薪の上に寝て父の仇を誓った。前494年、夫椒で越王・勾践を破る。会稽で降伏した勾践は呉に三年仕え、帰国してからは胆を舐めて『会稽の恥』を自問し続けた。前473年、勾践は姑蘇で夫差を追いつめる。『史記』越王句踐世家に残る「臥薪嘗胆」の語源を物語として紹介します。
「さようなら」は、もともと「左様ならば」の略。「そのようであるならば」という接続詞が、江戸後期の話し言葉で「さやうなら、御きげんよう」のように使われ、やがて後ろが省略されて、別れの挨拶として独り立ちした。幕末には早くも英語に入り、戦後の映画『サヨナラ』(1957) で英語圏に広く知られた「Sayonara」の語源を物語として紹介します。
後漢末、荊州に身を寄せていた劉備は、軍師を求めて隆中に住む諸葛亮の草廬を訪ねた。一度目、二度目は留守、三度目にようやく対面が叶い、天下三分の計を授かる——『三国志』諸葛亮伝と『出師表』に残る「三顧の礼」の語源を物語として紹介します。
「いただく」は、もともと両手で頭の上に押し戴く所作。古来、神や貴人から物を賜るときの作法だったとされる。仏教では「頂戴」として深まり、食前の挨拶として全国に広まったのは、明治・大正の学校での作法教育、戦後の学校給食を経てから。いまも食卓で繰り返す「いただきます」の語源を、諸説をたどりながら紹介します。
戦国時代の楚、宣王が「北方諸国はなぜ昭奚恤を恐れるのか」と問うた。説客の江乙が答える——「虎に捕まった狐が、私は天帝に百獣の長を任された者だ、信じぬなら後ろを歩け、と言い放った」。『戦国策』楚策一に残る「虎の威を借る狐」の語源を物語として紹介します。
明治23年(1890年)、東京・横浜間で電話が開通した。受話器の向こうの相手を呼ぶ言葉として「おいおい」「申します申します」が試され、やがて「もしもし」が定着する。妖怪は「もし」と一度しか呼ばない——だから二度続ける、という伝承もある。日常で口にする「もしもし」の語源を物語として紹介します。
前漢の頃、北の辺境(塞)のほとりに占いの上手な老人が住んでいた。馬が逃げ、戻り、息子が落馬し、戦が起こる——『淮南子』人間訓に残る、禍と福が入れ替わり続ける四場面の寓話。「人間万事塞翁が馬」の語源を物語として紹介します。
古代インドで、釈尊は弟子たちに語った——「大海を漂う一本の浮木の穴に、百年に一度浮上する盲目の亀が首を通す。人として生まれることは、それと同じくらい稀有である」。漢訳されて中国・日本へ渡った「有り難し」は、「めったにない」から「感謝」へと意味を変えた。日々口にする「ありがとう」の語源を物語として紹介します。
戦国時代、宋の国に狙公(そこう)という、たくさんの猿を可愛がっていた老人がいた。エサが足りなくなり「朝に三つ、暮れに四つ」と告げると猿は怒り、「朝に四つ、暮れに三つ」と言い直すと喜んだ。合計はどちらも七つ——『列子』黄帝篇と『荘子』斉物論篇に残る「朝三暮四」の語源を物語として紹介します。
戦国時代、孟子は当時もてはやされた縦横家・公孫衍と張儀を見て言った——「あれは大丈夫ではない」。富貴に淫せず、貧賤に屈せず、威武に屈せず——それが孟子の説いた「大丈夫」。日本に渡って意味が変わり、現代では「問題ない」の代名詞になった「大丈夫」の語源を物語として紹介します。
古代中国の小国・杞の人が、天が落ちてくるかもしれないと心配して、夜も眠れず食事も喉を通らなくなった。友人がやってきて「天は気の集まり、落ちてこない」と説き伏せる——『列子』天瑞篇に残る、いまも使われる「杞憂」の語源を物語として紹介します。
戦国時代、梁の恵王は孟子に問う——「自分は民のために尽くしているのに、なぜ人民が増えないのか」。孟子は戦場の譬えで答える。五十歩逃げた者が、百歩逃げた者を笑えるか——『孟子』梁恵王上篇に残る、有名な譬え話の由来を物語として語ります。
戦国時代、北の趙が隣国の燕を攻めようとしたとき、燕のために遣わされた説客・蘇代が趙王の前で語った一つの譬え——シギと貝が川辺で互いに譲らず争ううちに、どちらもまとめて漁師に捕らえられてしまう。両者の争いは第三者を利するだけだという「漁夫の利」の由来を、『戦国策』燕策二の物語として紹介します。
楚漢戦争の最終局面、紀元前202年の垓下。漢軍に幾重にも包囲された項羽は、夜、四方の陣から故郷・楚の歌が聞こえてくるのを聞く。味方のはずの楚の人々まで漢に下ったのか——『史記』項羽本紀に伝わる「四面楚歌」の故事を、覇王の最後の夜として語ります。
唐の長安、ロバに揺られながら詩を練っていた賈島は「僧は推す月下の門」か「僧は敲く月下の門」かで迷い、街中で京兆尹・韓愈の行列に突っ込んでしまう。『鑑誡録』に伝わる「推敲」の故事を、長安の街角の一場面として語ります。
楚漢戦争、紀元前204年の井陘の戦い。漢の韓信が趙の二十万を破った勝利の名前——「背水の陣」。川を背にした布陣の裏に、もうひとつの策があった。『史記』淮陰侯列傳の物語を、戦の名場面として語ります。
戦国時代の楚、祭礼の酒をめぐる賭けで蛇を描き終えた男が、調子に乗って『まだ足も描ける』と一筆を加えた——。説客・陳軫が将軍・昭陽に語った「蛇足」の寓話の由来を、物語として紹介します。
戦国時代、楚の市場で矛と盾を売る商人がいた。「何でも貫く矛」と「何でも防ぐ盾」。観客のひとりが訊いた——「じゃあ、その矛で、その盾を突いたら?」。『韓非子』が遺した有名な寓話の由来を物語として語ります。
戦国時代、趙の藺相如が秦から国宝『和氏の璧』を一切の傷なく持ち帰った物語。「完璧」という言葉の語源を、命がけの外交譚として語ります。